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ほだし

 清水富美加が出家するという。いろいろと批判を受けているようだが、どのような背景かは知りようがないため、訳知り顔で批評するのは控えたい。けっこう好きだったので見られなくなるのは残念だ。

 祖父母はいま、認知症になって老人ホームに入っていたり、療養型の病院で死を待っていたりする。両親はしばしば様子を見に行き、今日は元気そうだったと喜んだり、もう長くはないと悲嘆したりする。この7,8年は祖父母の老いと両親による世話、そして両親の老いが自分の傍にあった。

 否が応でも、両親の死を、そして自分の老後を考えてしまう。「この人がいるから生きていよう」と自分を縛る存在は今のところ両親以外にいないから、糸の切れた凧のようになってしまうかもしれない。さすがに後を追って死ぬことはないだろうが、自分の生に対して責任を持てなくなるような予感はある。動物でも飼ったら地に足をつけていられるだろうか。

 また、結婚して子どもを作って、という未来はゲイである以上望めない。かといって自分はパートナーを欲していないし、作ったとしても、それは紙切れ一枚の拘束力すら持たない。お互いの自由意志のみに基づいた関係になのだから、どこまで長持ちするかは不明だ。体が動かなくなって、ただ天井を見ながら誰に見舞われることもなく、一人で死んでいくような未来が浮かぶ。少し寂しいかもしれない。もちろん、これから先の様々な変化を想定せずに、気の塞ぐようなあれこれを数え上げている自覚はあるのだが。

 そうした中で、このごろ、信仰があれば死の脅威をいくらか受け入れられるのではないかと思うようになった。最後の審判で云々とか、輪廻転生して云々とか、中身はなんでもいいのだが、ただ無に帰ると思ってそのときを迎えるよりは安寧が得られそうだ。信仰がほだしとなって、着々と毎日を積み重ねていけるのではないかとも期待する。

 清水富美加という著名人が出家という生々しい言葉を以って信仰を明らかにしたことは、「現実に信仰が存在する」ことをまざまざと感じさせるできごとだった。彼女のTwitterを見る限り、信仰は「すり減って行く心」を救ってくれたようだ。失礼ながら幸福の科学はおもしろ宗教という認識に過ぎず、それを信仰するということに対して不思議に思う気持ちは禁じ得ないのだが、それでも信じるという営みには共感する部分があった。いま自分は無宗教であり、これから先もそうだとは思うが、仏教なりキリスト教なりの教義に触れてみるぐらいのことはしてもいいのかもしれない。