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立春+ワン

 長いことブログを放ったらかしてしまった。心機一転、古い記事は非公開にした。

 2017年になって1ヶ月が過ぎたが、特に抱負のようなものは考えていない。考えたところで例によって春には忘れているだろうし、抱負に忠実であるほど根気のある性質でもない。飛び飛びでもブログを更新するなり、日記を書くなりは続けたいと思っているぐらいだ。 

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 どんな音楽を聴く、どんな本が好きだ、このあいだの休日はどこで何をした。あの店は美味しいが値段ほどではない。今はあれが楽しくて、これにストレスを感じている。

 たとえばこうした話を、自分は人にすることがない。

 そもそも話せるほどにいろいろなことを記憶に留めていないのだが、それだけではなく、話すことで相手に印象を持たれることを避けようとしているように思う。

 しかし先日1年ぶりぐらいに会った知人は、会社が大変でそろそろ転職しようと思っているとか、共通の知り合いがどうなったとか、免許を取りに行ったときはどうだったとか、とりとめのない話をたくさんしていた。自分だったら「勤め始めて間もないのに転職するの? と思われるのが嫌だ」、「◯◯さんについては相手も知っているだろう」と思って話さないだろうことばかりだった。

 

 久々に腹が立つできごとがあった。誤解に基づく評価を受けたという、我ながら非常にしょうもない話だ。

 はじめは相手からの評価を“まともに”受け止め、「自分はなんてだめなんだろう」と気落ちしたが、一晩経ってからはむくむくと怒りが湧いてきた。相手は決して正しくないように思えた。どちらが本当に正しいか、努めて冷静に審判を下そうとして、どちらにも理があるように見えた。怒りに任せて喧嘩しようとも思ったが、それはやめた。これから先の人間関係もあるし、白黒つけたところで不毛だからだ。

 「すみませんでした、以後気をつけます~」と流してしまうまでに気持ちが忙しくひっくり返っていたが、結局「向こうがおかしい、けど社会性を発揮してとりあえず謝っとこう」で落ち着き、大きなストレスにならずに済んでいる。

 

 人にどう思われるかを気にしたり、客観的であろうとしたり、そういった努力は確かに必要なのだろうけれど、一方で「正しいのはあ・た・し」と不遜な自信を持ってしまうのも大事なことなのかもしれない。

 何かを判断するほどの材料を持っていないと思って、自分の頭の中にあることを過度に疑ってしまう向きがあったが、さりとて人間。好き嫌いはあるし、嬉しいことも腹が立つこともある。それにもっと素直に従えば良いのだと、そう思わせるできごとが続いた2月の頭である。