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社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学/ジョナサン・ハイト

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学
 
  1. 人間は自動的な(非意識的な)過程で道徳的に正しいかどうかを判断し、統制的な(意識的な)過程でその判断への理由付けを行う
  2. 道徳は一般に考えられている「他の人を傷つけてはいけない」というものだけではなく、6種の次元がある。こうした道徳の概念・道徳を重視する心のあり方は、自集団の生き残りのために獲得されてきた心の形質である。
  3. 政治的イデオロギーの違いは重視する道徳次元の違いで議論できる。道徳というシステムは内集団志向的なので、自分が所属する集団、すなわち自分が支持する政治的イデオロギーが「正しい」と盲信してしまいがちである。

 大きく分けると上記3つのような話。

 1は、心理学で非常によくある話(意識的過程/非意識的過程)なので目新しさはなかった。『鶏肉で自慰行為をした後に食べた』という文章を読ませて道徳的に良いか悪いかを判断させるなど、彼のユニークな実験を知ることができる。

 2は、やや構成概念をこねくりまわしているような印象を受けた。6つの次元で過不足がないのか・その6つの次元がラベルとして妥当なものであるのか、という批判はもちろんだが、それ以前にこうした概念構成があまり好きではないので、読み進めるのがやや苦になった。とはいえ、道徳を重視し、正しくあろうとする認知・行動傾向が「なぜ」備わっているかという視座のもとで議論していることは意義深い(心理学では、しばしば「ある傾向が備わっていること」が「いかに」影響するのかの議論に終止する)。

 また、このセクションの中では遺伝子における利己主義と利他主義を対立させていたが、これは素直に頷けなかった。――個体の生き残りに有効な形質を持つ遺伝子を利己主義的な遺伝子だとすると、集団の生き残りに有効な形質を持つ遺伝子が利他主義的な遺伝子であり、前者が9割、後者が1割であるかのように議論がなされていた。しかし、そもそも集団の生き残りは個体の生き残りにつながるのであるから、必ずしも利己主義・利他主義の対立軸を設定する必要はないのではないか。――と。とはいえ集団淘汰・マルチレベル淘汰あたりの話には明るくないので(そもそも適応の議論もかじった程度なので)、きちんと理解できていないだけかもしれない。

 3はより実際的な話として、保守とリベラルとの対立を道徳心理学の知見から議論していた。曰く、保守は6つの道徳次元に訴えかけるような主義主張を持つが、リベラルは2つのみであるため訴求性が弱く、“負ける”のだという。また、政治的イデオロギーは「非意識的」に決定されるために、変容が難しいという。

 第2のセクションで躓きを覚えたので、保守 vs. リベラルの対立(および優勢の違い)は道徳次元への訴求性によって規定される――と言われても・・・という感があった。筆者もこの本の冒頭で、研究者は自分の研究分野を以って大きなことを言おうとするものであり、自分もそうするつもりだと前置きしていたので、(ある意味で)過大に議論を広げている自覚はあるようだ。そうした前置きをしなければならないほどに、道徳次元を保守 vs. リベラルの対立を論じる主要なファクターとして用いるのは“飛んだ”ことなのかもしれない。

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 この本を読み始めたのが2月初旬、この記事を書き始めたのが中旬なので、だいぶ記憶が飛んでいる。この辺でやめておくことにする。「対立を超えるための」方法が示されていたのか、あるいは表紙にあるように「リベラルはなぜ勝てないのか?」への答えが示されていたかも記憶が定かではない(もし「リベラルも6つの道徳次元に訴えろ」であったら、それは筆者の論に従えば保守主義と同じ土俵に立つにすぎないのであり、勝てるわけではないように思われる)。

 心理学、特に道徳判断に関する話をかじったことがあればそれほど目新しい話はないかもしれない。予備知識がない方が余計な茶々を入れずに読めるので、楽しめるのではないか。

ほだし

 清水富美加が出家するという。いろいろと批判を受けているようだが、どのような背景かは知りようがないため、訳知り顔で批評するのは控えたい。けっこう好きだったので見られなくなるのは残念だ。

 祖父母はいま、認知症になって老人ホームに入っていたり、療養型の病院で死を待っていたりする。両親はしばしば様子を見に行き、今日は元気そうだったと喜んだり、もう長くはないと悲嘆したりする。この7,8年は祖父母の老いと両親による世話、そして両親の老いが自分の傍にあった。

 否が応でも、両親の死を、そして自分の老後を考えてしまう。「この人がいるから生きていよう」と自分を縛る存在は今のところ両親以外にいないから、糸の切れた凧のようになってしまうかもしれない。さすがに後を追って死ぬことはないだろうが、自分の生に対して責任を持てなくなるような予感はある。動物でも飼ったら地に足をつけていられるだろうか。

 また、結婚して子どもを作って、という未来はゲイである以上望めない。かといって自分はパートナーを欲していないし、作ったとしても、それは紙切れ一枚の拘束力すら持たない。お互いの自由意志のみに基づいた関係になのだから、どこまで長持ちするかは不明だ。体が動かなくなって、ただ天井を見ながら誰に見舞われることもなく、一人で死んでいくような未来が浮かぶ。少し寂しいかもしれない。もちろん、これから先の様々な変化を想定せずに、気の塞ぐようなあれこれを数え上げている自覚はあるのだが。

 そうした中で、このごろ、信仰があれば死の脅威をいくらか受け入れられるのではないかと思うようになった。最後の審判で云々とか、輪廻転生して云々とか、中身はなんでもいいのだが、ただ無に帰ると思ってそのときを迎えるよりは安寧が得られそうだ。信仰がほだしとなって、着々と毎日を積み重ねていけるのではないかとも期待する。

 清水富美加という著名人が出家という生々しい言葉を以って信仰を明らかにしたことは、「現実に信仰が存在する」ことをまざまざと感じさせるできごとだった。彼女のTwitterを見る限り、信仰は「すり減って行く心」を救ってくれたようだ。失礼ながら幸福の科学はおもしろ宗教という認識に過ぎず、それを信仰するということに対して不思議に思う気持ちは禁じ得ないのだが、それでも信じるという営みには共感する部分があった。いま自分は無宗教であり、これから先もそうだとは思うが、仏教なりキリスト教なりの教義に触れてみるぐらいのことはしてもいいのかもしれない。

 3年前に新宿伊勢丹サロン・デュ・ショコラへ行った自分はもういない。当時、実際にチョコレートが好きだったのか、それとも「甘いものが好きな自分」の像を確たるものにするつもりで行ったのかは定かでない。

 1年前にクリニークのスキンケアを揃えた自分ももういない。100mlの化粧水を使い切らないうちに、朝晩時間を取られることが面倒になってしまった。今もまだ容器の底の方に少しだけ、粘土の高い液体が入っている。

 「本当に好きなのか?」と問い続けていたら好きなものがなくなってしまった。必ずしも必要でないものを削ぎ落としたら、最低限のものすら残らなくなってしまったようだ。今のお金の使い道は食費ぐらいのもの、それとて使わずに過ごしてしまうこともある。目指していたわけではないが、ミニマリストの成れの果てか。少し虚しい。

 最近また化粧水が欲しいような気がしている。「まあ無くてもいいしなあ」と冷静な自分を封じ込めなければならず、たいした買い物でもないのにまだ踏み切れていない。不要なものがあることに抵抗を感じる。浮かび上がってきた気持ちを疑わず、赴くままであることも健康には必要なのだろう。化粧水を買えたら、さしあたって何件か行きたいケーキ屋があるので、足を運んでみようと思う。

 読みたい本がいくつかあるのだが、どれも単行本のままなので買えずにいる。値段の問題もさることながら、場所の問題が大きい。本棚はとうにいっぱいで、背表紙がこちらを向いているような整然さは皆無だ。買い足すたびに、無理やり隙間を作って詰め込んでいる。

 「初めから文庫で発売してくれたら」と思いつつ、装丁に携わる人の生活に思いを馳せてみたり、出版業界の利益を心配してみたりする。時間経過とともに文庫の値段が下がっていくようにしてはどうか。1000円ぐらいからはじめて。でも値下がりを待ってしまって自分は買いそうにない。やはりだめそうだ。云々(でんでん)。

 頭にあることを言葉にする作業を怠っていた結果、人にうまく伝えられないことが増えてしまった。言葉を端折ってしまったり、頭の中ですら言語化できていなかったり、それは時々によるのだが。とかくイメージで認識し、イメージで語りたがる。あんな感じこんな感じ。ときには擬音語を使い、そして伝わらない。

 ブログに書き出す作業はリハビリになるかもしれないと期待している。