Xylifive

ゲイによる雑記

 oimoboyさんがちょうど書いていたことだけど、精神的な部分ですこぶる調子がよく、とくに考えを整理したり気持ちを落ち着けたりする必要が無いので、ブログを書こうっていう気持ちにならない。だから昨日はふと思い立って訳の分からない記事を書いてしまったが(もはや記事とも呼べない)、あれはあれで結構気に入っている。

 それぐらいのラフさを保ちつつ続けて書いていければいいなーと思いつつ、最近は放置していたツケが回って本業が忙しく、かつその忙しい状況もそれなりに楽しめているので、なかなかすぐには手がまわらなさそうだ。

 

 そんなわけで11月。

 クリスマスの準備はお済みですか? わたしは今年も一人です。  

 

多様性という劔

 前記事で「『ふーん、そういうのがあったのね』と思う程度」と書きつつ、保毛尾田保毛男に関する記事が続きます。今回はこんな記事について。

 

 

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  保毛尾田保毛男への批判を「分別がない」とする、ミッツ・マングローブ氏による記事である。概要は以下の通りである。

 ミッツ氏は今回の件について、保毛尾田保毛男を批判する人々を「分別がない」と述べている。そして、「ものの感じ方・受け取り方は人それぞれ」としつつも、「過去を持ち出して今を批判するのは、いささか『男らしくない』感じがします」とし、保毛尾田保毛男のブームを通じてサバイバル力を培った自身の経験を「一例」として挙げている。続けて「『差別的なものに蓋をする』だけでは、何の意味もないことにそろそろ気付かないと」とし、「何より愚かで恐ろしいのは、『自分は普通だ』と信じて疑わない傲慢さや鈍感さなのではないでしょうか?」と結んでいる。

 保毛尾田保毛男氏を批判する人々を「分別がない」と述べる人がいることに、まずは驚きを禁じ得なかった。「分別がない」と一段上から批判するのは結構なことだが、こうした問題は何が正解といった種の話ではないので、随分と卑怯な立ち位置を取っているように感じられる。勝手で恐縮ではあるが、知的なイメージで売っているという印象があっただけに、稚拙な批判の仕方・言葉の選び方に驚いてしまった。

 そもそもこうした問題に対して「私はこうだった」という個人的な経験を持ち出して反論するのは、極めてナンセンスだ。たしかに「私は保毛尾田保毛男で傷ついた過去があり、今の時代に復活するのはいかがなものか」とする批判も個人的な経験に根ざしたものではあるが、それはあくまで問題提起に過ぎない。提起された問題に対して「いやでも私は違ったし」と反論するのは、例えば「経済的に貧しい人々のほうが学歴が低い」という実証データに対して「いやでも私の家は貧しかったけれど東大出たし」と反発するようなもので、あまり建設的ではないだろう。ミッツ氏もそのことへの理解はあるようで、「あくまで一例」と予防線を張ってはいるが、「だったら書かなければよいのでは?」の一言に尽きる。

 そのうえで、「差別的なものに蓋をする」のがよろしくないというのは諸手を挙げて賛成した次第だ。しかしミッツ氏の主張するように、侮蔑的なニュアンスが含まれる物事を多様性の名で許容するのであれば、ヘイトスピーチ等も許容されて然るべきということにならないだろうかと疑問を禁じ得なかった。おそらくミッツ氏は、「『分別』というのは、無数のグラデーションの中で、その都度その都度『判断』をすることです」と述べている通り、「保毛尾田保毛男はOK、でもヘイトスピーチはNG」と「判断」するのだろうが、その線はいったい誰が決めるのだろう。対象となった人々、ないしその一部が不快な経験をしたことは同様であり、かつ、社会的に議論の対象となる程度には一定の規模があるというのに。*1

 となると、「そもそも保毛尾田保毛男は侮蔑的なニュアンスを含むのか?」という話になる。保毛尾田保毛男はお笑いの文脈でのものである、あくまでキャラクター・石橋貴明氏であり、同性愛者を嘲笑の対象としたものではない、といった種の主張はしばしば目にする。

 しかし、それこそ受け取り手の問題であるから「分別の有無」というメタ的な言葉を用いて批判するような種のものではないだろう。繰り返すが、あなたはそう思ったのね、私はこう思ったよ、の世界であり、分別の有無の問題ではない。*2

 ましてや、もしフジテレビがミッツ・マングローブ的多様性論に基づき、ないし分別のある社会づくりへの一石を投じる目的で再出演させたならばまだしも、謝罪しているところを見る限り今回の一件は明らかにそうではない。つまりはコンプラ的にどうなの?という話であり、フジテレビのLGBTに対する「分別」が問われるのも至極当然のことである。

 分別という言葉に引っかかってやや脇道にそれたが、保毛尾田保毛男は侮蔑的なニュアンスが含まれる・少なくとも分別が問われる種のものであり、それは多様性の名のもとに許容されるものではないと思われる。差別的なものへの問題が提起されているのに、それを分別がないと批判して蓋をしているのは、一体どちらなのだろうか。あるいは、「多様性」は他者の福利を侵害するようなものを認めるために使われる言葉だっただろうか。

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 構成考えずに・校正せずに書いてしまったので気が向いたらちゃんと書き直したい次第です。

 すんごく熱量高めに書いたはいいものの、実際問題として自分は保毛尾田保毛男の件、どうでもよい。LGBTの権利系のあれこれも基本的にどうでもよいが、それは同性愛者であるという自分の属性にあまりアイデンティティを持っていないからかもしれない。税金等の制度面では同性カップルにも権利を保証してほしいと思うが、それもあくまで制度利用上の関心に基づくものである。

 それよりもフジテレビのコンプラ意識や、この笑いの取り方に批判が生じることを理解できない、あるいは理解していても明後日な反論をする人たちがふしぎで、おもしろい。

*1:そもそもヘイトスピーチをOKと見なす立場の人であれば、もうそれはレイヤーの違う議論になるが

*2:マジョリティがマイノリティに扮するというフレームでみると、白人が黒人に扮するのと同じことであるから、それこそ「そうしたネタを行う」分別が問題になりそうだ。