Xylifive

ゲイによる雑記

多様性という劔

 前記事で「『ふーん、そういうのがあったのね』と思う程度」と書きつつ、保毛尾田保毛男に関する記事が続きます。今回はこんな記事について。

 

 

dot.asahi.com

  保毛尾田保毛男への批判を「分別がない」とする、ミッツ・マングローブ氏による記事である。概要は以下の通りである。

 ミッツ氏は今回の件について、保毛尾田保毛男を批判する人々を「分別がない」と述べている。そして、「ものの感じ方・受け取り方は人それぞれ」としつつも、「過去を持ち出して今を批判するのは、いささか『男らしくない』感じがします」とし、保毛尾田保毛男のブームを通じてサバイバル力を培った自身の経験を「一例」として挙げている。続けて「『差別的なものに蓋をする』だけでは、何の意味もないことにそろそろ気付かないと」とし、「何より愚かで恐ろしいのは、『自分は普通だ』と信じて疑わない傲慢さや鈍感さなのではないでしょうか?」と結んでいる。

 保毛尾田保毛男氏を批判する人々を「分別がない」と述べる人がいることに、まずは驚きを禁じ得なかった。「分別がない」と一段上から批判するのは結構なことだが、こうした問題は何が正解といった種の話ではないので、随分と卑怯な立ち位置を取っているように感じられる。勝手で恐縮ではあるが、知的なイメージで売っているという印象があっただけに、稚拙な批判の仕方・言葉の選び方に驚いてしまった。

 そもそもこうした問題に対して「私はこうだった」という個人的な経験を持ち出して反論するのは、極めてナンセンスだ。たしかに「私は保毛尾田保毛男で傷ついた過去があり、今の時代に復活するのはいかがなものか」とする批判も個人的な経験に根ざしたものではあるが、それはあくまで問題提起に過ぎない。提起された問題に対して「いやでも私は違ったし」と反論するのは、例えば「経済的に貧しい人々のほうが学歴が低い」という実証データに対して「いやでも私の家は貧しかったけれど東大出たし」と反発するようなもので、あまり建設的ではないだろう。ミッツ氏もそのことへの理解はあるようで、「あくまで一例」と予防線を張ってはいるが、「だったら書かなければよいのでは?」の一言に尽きる。

 そのうえで、「差別的なものに蓋をする」のがよろしくないというのは諸手を挙げて賛成した次第だ。しかしミッツ氏の主張するように、侮蔑的なニュアンスが含まれる物事を多様性の名で許容するのであれば、ヘイトスピーチ等も許容されて然るべきということにならないだろうかと疑問を禁じ得なかった。おそらくミッツ氏は、「『分別』というのは、無数のグラデーションの中で、その都度その都度『判断』をすることです」と述べている通り、「保毛尾田保毛男はOK、でもヘイトスピーチはNG」と「判断」するのだろうが、その線はいったい誰が決めるのだろう。対象となった人々、ないしその一部が不快な経験をしたことは同様であり、かつ、社会的に議論の対象となる程度には一定の規模があるというのに。*1

 となると、「そもそも保毛尾田保毛男は侮蔑的なニュアンスを含むのか?」という話になる。保毛尾田保毛男はお笑いの文脈でのものである、あくまでキャラクター・石橋貴明氏であり、同性愛者を嘲笑の対象としたものではない、といった種の主張はしばしば目にする。

 しかし、それこそ受け取り手の問題であるから「分別の有無」というメタ的な言葉を用いて批判するような種のものではないだろう。繰り返すが、あなたはそう思ったのね、私はこう思ったよ、の世界であり、分別の有無の問題ではない。*2

 ましてや、もしフジテレビがミッツ・マングローブ的多様性論に基づき、ないし分別のある社会づくりへの一石を投じる目的で再出演させたならばまだしも、謝罪しているところを見る限り今回の一件は明らかにそうではない。つまりはコンプラ的にどうなの?という話であり、フジテレビのLGBTに対する「分別」が問われるのも至極当然のことである。

 分別という言葉に引っかかってやや脇道にそれたが、保毛尾田保毛男は侮蔑的なニュアンスが含まれる・少なくとも分別が問われる種のものであり、それは多様性の名のもとに許容されるものではないと思われる。差別的なものへの問題が提起されているのに、それを分別がないと批判して蓋をしているのは、一体どちらなのだろうか。あるいは、「多様性」は他者の福利を侵害するようなものを認めるために使われる言葉だっただろうか。

*****

 構成考えずに・校正せずに書いてしまったので気が向いたらちゃんと書き直したい次第です。

 すんごく熱量高めに書いたはいいものの、実際問題として自分は保毛尾田保毛男の件、どうでもよい。LGBTの権利系のあれこれも基本的にどうでもよいが、それは同性愛者であるという自分の属性にあまりアイデンティティを持っていないからかもしれない。税金等の制度面では同性カップルにも権利を保証してほしいと思うが、それもあくまで制度利用上の関心に基づくものである。

 それよりもフジテレビのコンプラ意識や、この笑いの取り方に批判が生じることを理解できない、あるいは理解していても明後日な反論をする人たちがふしぎで、おもしろい。

*1:そもそもヘイトスピーチをOKと見なす立場の人であれば、もうそれはレイヤーの違う議論になるが

*2:マジョリティがマイノリティに扮するというフレームでみると、白人が黒人に扮するのと同じことであるから、それこそ「そうしたネタを行う」分別が問題になりそうだ。

保毛尾田保毛男問題から見るちえみ

 それまで保毛尾田保毛男を知らなかった若年層としては、「ふーん、そういうのがあったのね」と思う程度であり、正直なところここまで紛糾しているのは意外であった。たしかに同性愛者のステレオタイプ(といっても、一昔前のもののように思えるが)で笑いを取ることは、結果として多くの同性愛者に生きづらさを感じさせていたのだろう。(ちなみに個人的な話としては、「同性愛者を差別・嘲笑の対象とするのはよくない」という倫理観が形成されつつある時代に思春期を過ごしていたので、それほどこの種の問題に悩まされることはなかった。「ゲイだ」的いじり方をされている人がいなかったわけではないが、それは保毛尾田保毛男時代の人が経験したであろう攻撃的・排他的な種のものではなく、仲間内でのからかいであったように思われる。もちろん、当人がどう受け止めていたのかは別の話だが)

 しかし何よりこの一件で沸き起こったのは、「ブルゾンちえみ、よい!」というある種の感慨であった。

 ちえみは(敢えてちえみと書こう)「キャリアウーマン」のステレオタイプで笑いを取っている。決して特別美人でもスタイルがいいわけでもない彼女が、「バリキャリ」を演じつつ、高スペック男性を2人従えて「男なんて35億人いるのよ!あと5000万人もいるじゃない」と豪語する。たぶん一昔前の女性芸人であったら、「身の丈に合わないことを言っている私」を嗤わせることで、笑いを取っていたのではないだろうか。

 だが、ちえみは違う。我々がちえみを見て笑うとき、笑っているのは「本来そんなことを豪語できるはずのない女が、盲目的に『私なら男なんていくらでも捕まえられる』と豪語している様」ではない。我々が笑っているのは、あの訳の分からない「キャリア」と「ウーマン」の間であったり、何のために居るのかわからないwithBの2人であったり、あるいは35億(そして残りは5000万人!)という意味のわからないスケールのデカさ、そして全力で自分を肯定するポジティブなエネルギーなのだ。

 つまり、キャリアウーマンに扮した彼女は、決して「キャリアウーマン」という人々を、そして彼女自身を貶めることなく笑いを取っている。なんて品の良いことだろう。ちえみを初めて見たとき、正直言って他の芸人を見るときのように爆笑はしなかった。だが、なんだか面白い。じわじわ来て、もう一度見たくなってしまう。その秘密は誰のことも攻撃しない、ポジティブなパワーに溢れた姿にあるのかもしれない。そこには新しい笑いの兆しがあるようだ。

----------

 ほんっとうに書くまでもないことですけど、ちえみ氏を見て嘲笑による笑いを感じないのは個人の感想ですので、「私は違う」的なことは胸にしまっておいてください。

----------

 保毛尾田保毛男問題に係る一件として、ウーマンラッシュアワー村本氏と駒崎氏が議論しているらしいことを知った。どちらに特別賛同するというわけでもないので各々の主張は差し置くにしても、村本氏が「保毛尾田保毛男問題を問題と思っていないゲイもいることを取り上げろ」という旨をツイートをしていたのには度肝を抜かれた。当事者の中にAという人もいればBという人もいるのは当たり前のことで、そのすべてを取り上げていては議論なんてしようがない。随分と幼稚な反論の仕方であると思うし、おそらく本人がそれに気づいていないのは気の毒にすら思える。彼は炎上を売りにしているそうなので好都合なのだろうが、著名人がSNSで発信するのも考えもの、というか管理する事務所は大変だろうなと思った。

そしてLHHへ……

Outlook 2016

 Outlookに対しては良い印象がなかったのだが、職場で使っているため自宅でも導入してみたところ、これがなかなか便利だった。メールの管理、スケジュールの管理、タスクの管理、「これさえ開いておけばOK!」な感がある。ブラウザを開くとついつい余計なページを開いてしまうので、モニタ上でスペースが分けられている感があるのがよい。問題はスマホへの同期がうまくいっていないところ(スケジュール・タスク)。早いところ習得して未診断精神疾患モブログからライフハックモブログへCC(クラス・チェンジ)したい。そういえばオクトパストラベラー面白そうですね。

 

■例外主義

 紛うことなきフェミニストもとい過激派リベラルなので女性が社会で活躍することにも夫婦別姓にも諸手を挙げて賛成だ。「女だから」がなくなることで「男だから」もなくなってくれればこちらとしても生きやすい。過度にセクハラの範囲が広がるのは困るし、女性専用車もなんとかしてほしいけど。映画のレディースデーは商業的な問題なので別にいいと思っている。

 しかし「女なら三歩下がって男のあとをついていけ」を糾弾する口が、しばしば「女性らしい細やかな気遣い」と言っているようであるのは解せない。同じように「日本人ならではのおもてなし」あたりもそうだが、ポジティブなワードがくっつけばよいのだろうか。甚だ疑問だ。

 言葉にはあちこちに、主語が大きくなればなるほど"なんだか説明されたような気になってしまう"トラップがひそんでいるように思われる。実際のところ細やかでない女性もままいるであろうし、おもてなしが素晴らしいのはある側面だけの話であるかもしれないが、大きな主語で語られる「らしさ」はすんなりと受け入れられているように感じられる。主語へのステレオタイプに合う内容が語られているから受容されているのであろうが、ある種の思考停止ではないか。

 というわけで過激派リベラルとしては大きな主語の使用に断固として反対していく所存だが、「経験上、女性上司はヒス気味でありコントロール欲が強い」と同じ口で語ることは許されたい。